本ページ、工事中
明治17年頃の廿軒家神明社とは?(天保12年頃の廿軒家神明社についても追記しました)
廿軒家神明社と常燈神明社との関係
本邦初公開の大正時代の地図
空から見た廿軒家・今昔 追加航空写真
昭和中期の自衛隊駅前付近の地図
瀬戸街道の守山自衛隊交差点付近の今昔
すいどうみち緑道
矢田川
昭和48年当時の守山市役所が発行した守山市史からの抜粋
矢田川とそれに架かる橋
瀬戸電
瀬戸街道
廿軒家小学校</a>
「街道への誘い ふるさと守山物語」 川本文彦著 1997年5月31日発行
川本文彦さんのお許しを得ましたので、この本の全文をこのサイトで読めるようにしました。
この本は絶版です。このまま読まれなくなってゆくのは惜しいと思い、スキャナーで取りました。やや読みにくいですが、機会があればお読み下さい。
「終戦後思いで記(その1)」
「終戦後思いで記(その2)」
国島さんの戦争体験文です。
ふれ合った草花達A(その1)(その2)(その3)
ふれあった草花達B(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)
(その6) (その7) (その8) (その9) (その10)
国島清さんが数十年間矢田川散歩時に出会った植物達です。
昆虫達のファッションショー(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)
(その6)(その7)(その8)(その9)(その10)
国島清さんが数十年間、学区内の矢田川ほとりでのんびり楽しみながら撮影してきた癒し系
の写真集です。
明治17年頃の廿軒家神明社
明治17年頃の廿軒家神明社とは?
(天保12年頃の廿軒家神明社についても追記しました)
はじめに (新HP担当者記)
本頁は、旧HP担当者を引用し、一部適してないであろう点を朱で修正・加筆など致しました。
また、「古文書」と安易に使われる様で、100年も経たない文書にも使われています。
確かに「古い文書」を意味するのですが、歴史を語る(歴史学)上では、概ね「江戸期(近世)以前の「文書」を「古文書」と使います。
何度も「古文書が…」と聞き期待したのですが、残念な話でした。
歴史を語る上で、基本的なことですから、歴史に馴染みの薄かった方だったのかも知れません。
また、歴史に馴染みの薄い方々に語るには、「箔付け」にはなるかも知れません。
「信頼度がかなり高い古文書」と表現されている箇所が有りますが、「古文書」とは言えませんし、その文章には、「詳カラザレドモ」(詳しくないけれど)と不安定要素が有ることが書かれています。
また、色々と考慮しますと「信頼度がかなり高い」とは、全く言えません。
貴重な資料とは見ますが、返って「信頼度のの低い部分がある。」と云うところでしょう。
確たる信頼できる史料以外は、他の裏付けをとるまでは、言い切れるものでは有りません。
確たるところの史料でも、その立場での過飾が有る可能性は、否定できません。
引用本文
最近(2019年9月)愛知県公文書館で明治17年に作成された地籍図を閲覧してきました。
閲覧して始めは廿軒家神明社がこの地籍図に載っていないのに驚きました。
そこで更に調べた結果、”当時も廿軒家神明社は実在していたであろう”と結論付けました。
その理由を以下に記載します。
<理由1>
廿軒家神明社が存在していた辺りのこの地籍図の抜粋を、大正末期に作成された小幡郷図と対比する形で以下に示します。
地籍図の方については、廿軒家神明社が存在して辺りの拡大図も以下に示します。
この拡大図には、赤線で囲った千八百十・・柴生 と記載されている土地があります。
この土地は、大正末期に作成された小幡郷図と比較すると、廿軒家神明社が存在していたであろう土地に当たります。
今と同じ位置にL字型の参道も表示されています。
<理由2>
この土地の地目は柴生です。柴生とは柴のように低い雑木が生えている土地という意味です。
近隣の土地は皆地目が畑であるのに対して、ここだけが柴生となっており、一般的は私有地ではありません。
(但し昭和中期まで神明社の境内の傾斜地は松林でした。平坦地は今も高木が茂っています当時以降にこれの樹木が植えられたのでしょうか?)
<理由3>
廿軒家神明社の由緒について信頼度がかなり高い古文書が存在します。
それらの古文書には、創建は元和3年以降の元和年間(1617年~1624年)と記載されてい読みとれます。 ←この辺りが、信頼性が低く思えます。(新HP担当者記)
また、”明治8年本社境内土地ハ二十軒家島信徒ニ払イ下ゲ受ケタ。”とも記載されています。
但し、この土地の地目は柴生と記載されているのですから、当時は廿軒家神明社の社殿は、極めて小さなものであったと推察されます。
《追記》
守山郷土史研究会発行の「もりやま」第4号 P66に天保12年(1842年)に作成された以下に示す小幡村村絵図が載っています。
この絵図にも以下に注記したように、常燈神明社は記載されていますが、廿軒家神明社は記載<br>
されてていません。
従って、上記理由で廿軒家神明社は天保12年(1842年)頃も既に存在していたと推定されますが、 神社とは言えないほど、小さなものであったと思われます。
上記村江図の原本を以下に示します。これは徳川林政史研究所所蔵絵図目録1のP42にリストアップされている絵図です。
鶴舞図書館からこの絵図を入手しました。
この地図の全体拡大表示は、こちら
上記小幡村絵図について解説した文章が、「矢田川」のP132~P136に掲載されていますので、それを
以下に示します。
大正時代の小幡郷図
大正時代の小幡郷図
拡大の文字をクリックするとその部分が拡大表示されます。
こちらは地図全体の拡大表示です。
これは大正時代に手書きで作成された畳1畳半ほどの非常に大きな地図です。
岐阜信用金庫守山支店が2008年(平成20年)に30周年記念行事として、昔の近所の状況が分か る古い資料を探している過程で、この地図を見つけ、行内で展示していました。
展示終了後、所有者の家を訪れ、所有者の許可を得て、この地図を写真に納めました。
あなたがお住まいの所は昔どうであったか、この地図で調べてみませんか?
この地図には廿軒家神明社の石段を下った辺りに、当時はべんべ川(蛇川)が流れていることが明示さ
れています。300mほど上流には水車小屋も明示されています。
この地図に載っている神明社近辺
また、この地図には、下図の如く、廿軒家神明社の他に、東側の小幡常燈に神明社跡も載っています。
明治末期に神社合祀の勅令がでました。廿軒家神明社は役員の働きで、合祀を免れましたが、常燈神明 社の神様は、その時に白山に合祀されました。その後、昭和18年の分区の際、分祀され、廿軒家神明社の神様と合祀しました。
神明社は日本全国に5千社あるとも1万8千社あるともいわれていますが、いずれも主祭神は伊勢神宮 から分祀された天照大御神です。
廿軒家神明社もその中の1つですが、廿軒家神明社のように、分祀された同じ神様がまた合祀され祀ら れている神明社は珍しと思われます。
又、歴代の多数の熱心な氏子総代によって支えられ、地元の氏神様としての質実が充実してきたことも 特筆すべきことであると思われます。
こちらやこちら、こちらも関連事項が記載されています。
廿軒家神明社の主祭神
廿軒家神明社と常燈神明社との関係
明治17年(1884年)頃の廿軒家神明社
コラム
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以下の写真は小川萬蔵さんから提供いただいたものであり、廿軒家小学校のプールが竣工した<br>
昭和39年(1964年)ごろに撮影されたものと推定されます。
以下に、この写真に関連付けて、皆様から既にお聞かせ頂きました想い出話を掲載します。
今後このコーナーを充実させたいと思いますので、これからも想い出をお聞かせねがいます。
メールには詳しい内容を記載頂かなくても結構です。口頭でお伺いし、それをこちらで文章化し、このページに載せることも致しますので、"想い出あり"とご一報くださるだけでも結構です。
手っ取り早いですので、私(長尾)の想い出を以下に多く記載しましたが、これから皆様の想い出を沢山追加してゆきたいと考えておりますので、何卒ご理解願います。m(_
_)m
《田中千里さんの想い出》
■幼い頃は毎朝父に手をつながれて神明社へいった。この頃の神社は東向きであった。
■当時右側にお稲荷さんの3つのオシャトもあって、本殿でお参りしたあと、そこでもお祈りをした。
その後では向かって左側の林に入り、きのこや蓑虫をとった。蓑虫は家に持ち帰り、財布を作った。
■当時はまだ南の石階段はなかった。南に下りきった今の廿軒家会館や駐在所のある辺りには東から西に向かう川幅2メートル位の⑦ちい川と呼ぶ小川があった。池もあって子供がそこで泳いでいた。これに対して現在守山川と呼んでいる川は、その当時は⑥おお川と呼んでいた。
おお川には水車小屋があり、シジミやメダカが住んでいた。上流の瓢箪山から下った辺りには、ため池もあった。
※守山市史には下記の記述があります。
「もともとこの辺りには通称大川と呼ぶ清流があったが、耕地整理で埋め立てられた。
これに代わったのが守山川である。守山川は小幡及び廿軒家の水田の用排水水路で、耕地整理組合によってつくられ、・・・」
■⑩にある自宅のすぐ南に戦争中爆弾が落ちた。そのため自宅が崩壊し下敷きになりかけたが落ちてきた棟木の中央湾曲部にできた空間に閉じ込められただけで済み、助かった。
《川本文彦さんの想い出》
川本さんがお書きになった41章からなる「ふるさと守山物語」は、全頁スキャナーでとって本ホームページでご覧いただけるようになっていますが、長尾
治さんは、その内、特に下記の2章に興味を持ちました。
■12.ふるさとの川
矢田川でのシラハエ・アカモツなどを四つ手網で取った体験が生き生きと描かれています。
■32.空襲の惨状
川向こうの三菱重工名古屋発動機製作所や守山での凄惨な空襲の状況が書かれています。
《小川萬蔵さんの想い出》
■②の自宅を建てたころは、東はこの写真の通り殆ど田んぼで、見通しがよかった。
■最近⑦の辺りの自宅も建替えたが、砂地で基礎工事が大変であたった。この辺りに川が流れていたというのは頷ける。
■⑧の辺りに終戦間じかにシートが掛けられていた遺体があった。
※長尾 治さんもその記憶があり、近づくのが怖い思いをした。
《長尾 治さんの想い出》
■宮前橋は以前は⑤の位置に架かっていた。
また、橋の下流20mぐらいのところに砂採取のトロッコ橋も架かっていた。
無断でトロッコ遊びもした。
※守山市史には宮前橋について下記の記述があります。
「昭和12年にはじめて耕地整理組合によって松川橋修理の廃材をもって架橋した。
それも川原の中の流れだけにかけたものであったが、空襲で破壊された。
その後、昭和22年に木橋の本橋が架けられたが、昭和32年8月の豪雨で流失したので、昭和33年10月、長さ188メートル・幅9.5メートルプレストレスコンクリートの近代的は姿で完成した。」
昭和中期の名鉄瀬戸線自衛隊前駅近辺の地図
瀬戸街道の守山自衛隊交差点付近の今昔
瀬戸街道の守山自衛隊交差点付近の今昔
昭和37年頃の国府宮の大鏡餅奉納パレードの時の様子
社会を明るくする運動
マツダのオート三輪のお通りダイ!
昭和58年9月大雨
本ページは、未完成です。m(_ _)m
これから、着手致します。m(_ _)m