明治4年(1871年)廃藩と同時に廿軒家屋敷は小幡村に 併合され以来廿軒家島と称せらるようになった。
当時の戸数 は40余であり、当時の祭事はこれらの信徒によって挙行されていた。
明治8年(1875年)本神社の境内地が信徒に払い下げ受けた。
最近ニ至リ社格ナキ神社ハ法令ノ定ムル所ニ依リ其ノ存在ヲ認メザル由ヲ聞キ信徒ハ本神社は無論社格アルモノト念ノ タメ調査シタルニ全ク社格ナイキコトヲ発見シ大イニ驚愕憂慮ス。思ウニ明治初年神社台帳判定ノ当時其当事者ガ届出を怠リ今日に至レルモノナルベシ。
明治17年(1884年)地籍図が作成された。この地籍図には常燈神明社は載っているが、廿軒家神明社を載って いない。このことから判断すると、当時廿軒家神明社はあるにはあったが、社殿は極めて小さなものであったと推定さ
れる。
明治29年(1896年)廿軒家島ハ守山聯隊設置以来人工俄ニ増加シ現今二百有余戸ニ及ビ之等住民ハ皆均シク本社 ヲ産土神ト崇メ日夜信仰を加エ或ハ拝殿ヲ改築シ玉垣ヲ築キ或ハ石灯籠手洗場石大鳥居等ヲ寄付建立スルモノ実に多
ク現在立派ニ社格をナシ尊敬ヲ保有シ朝夕参拝者ノ絶ユルコトナシ。
明治35年棟札によれば未解読ながら何らかの工事が行われ た。
明治37年(1904年)2月6日~明治38年(1905年)9月5日の間 日露戦争
明治37年(1904年)1月秋葉山常夜燈が奉納された。 「嶋内安全」と刻印されてる。
明治38年(1905年)日露戦争戦勝記念の灯篭が奉納された。 現在は上部はなく、中台と竿だけが残っている。
明治42年棟札によれば未解読ながら何らかの工事が行われ た。
ここが廿軒家島と称されてい た頃、「お まんと(馬駆け)」行事が盛んであった。
「おまんと」とは飾りつけした馬の手綱を持って屈強の若者が白山神社から神 明社へ疾駆してくる行事であったと伝えられている。
ここが廿軒家島と称されてい た頃、「お まんと(馬駆け)」行事が盛んであった。「おまんと」とは飾りつけした馬の手綱を持って屈強の若者が白山神社から神
明社へ疾駆してくる行事であったと伝えられている。
《田中千里さんの想い出話》祭 りの当日はボイルの服(夏の薄手のよそゆき)を着て白山社へ出掛けた。箕浦三郎さんが手綱とっていた。「おまんと」が白山神社の境内を3回廻った後、神明社へ向かって駆けていった。馬の後に従った子供たちは綱を手に取り、馬が速く走りすぎるのを抑えるブレーキの役目を果たしていた。
≪箕浦智代子さんの想い出話≫当時祭礼は神明社ではなく、白山社で他の地区の 氏子と一緒にしていた。 昭和25~30年頃まで白山社には5~6頭の馬がお祭りの時には集まってきていた。
明治43年(1910年)7月15日勅令に」基づき村内各社は皆合祀することになったが、当神社は、当神社の役員の方々の 努力によって、依然として現位置に存続し続けることが認められた。
なお、この勅令によって全国で20万社あった神社の内、7万社が取り壊された。 その中が1つが小幡常燈の神明社であり、廃社となったため、そこに祀られていた神様は、小幡白山社の合祀された。
そしてその後、昭和18年に小幡白山社から分祀され、廿軒家神明社の神様と合霊されました。