廿軒家神明社の歴史

歴史(由緒含) 及び 皆様からお寄せいただきました思い出話
(旧ホームページを引用・参考に、訂正するところは訂正いたしました。解釈未着手部分が有りますが、御容赦下さい。また、大局的な出来事は、朱色としました。)

 
江戸時代  

江戸時代 (創建含)

創建は、元和年間(1615年~1624年)と伝えられている。

    但し、宮司云い伝えでは、創建を元和元年(1615年)としています。

成瀬隼人正正成は、当地の看視役 として組頭外10名の同心を召抱えた。

そして彼らが産土神と して神明社 を創建した。 徳川家康の命を受け尾州家義 直卿の附家老と して赴任した成瀬隼人正正成は、元和3年(1617年)に徳川秀忠から犬山城主を拝領した。

元禄16年(1703年)の頃にはすでに廿軒家という地名もしくは俗名が、誕生していただろうと思われます。

棟札に よれば、元禄16年(1703年)、元文4年(1739年)、明和8年(1771年)、安永4年(1775年)、安永8年 (1779年)、寛政4年 (1792年)に未解読ながら何らかの工事が行われた。 嘉永6年(1853年)新たに10名の同心を召抱えた。

元治2年(1865年)長州征伐に出陣した小幡の成瀬家家臣たちが出征記念として灯籠を奉納した。

正確な年代は不明であるが、この頃に建てられたと推定される「神明宮」と刻印 された石柱が、以前は百度石のすぐ横に立っていたが、2019年に戦没者慰霊碑内に 移された。

慶応3年=明治元年(1867年)大政奉還、王政復古
明治時代

明治時代

明治4年(1871年)廃藩と同時に廿軒家屋敷は小幡村に 併合され以来廿軒家島と称せらるようになった。

当時の戸数 は40余であり、当時の祭事はこれらの信徒によって挙行されていた。

明治8年(1875年)本神社の境内地が信徒に払い下げ受けた。

最近ニ至リ社格ナキ神社ハ法令ノ定ムル所ニ依リ其ノ存在ヲ認メザル由ヲ聞キ信徒ハ本神社は無論社格アルモノト念ノ タメ調査シタルニ全ク社格ナイキコトヲ発見シ大イニ驚愕憂慮ス。思ウニ明治初年神社台帳判定ノ当時其当事者ガ届出を怠リ今日に至レルモノナルベシ。

明治17年(1884年)地籍図が作成された。この地籍図には常燈神明社は載っているが、廿軒家神明社を載って いない。このことから判断すると、当時廿軒家神明社はあるにはあったが、社殿は極めて小さなものであったと推定さ れる。

明治29年(1896年)廿軒家島ハ守山聯隊設置以来人工俄ニ増加シ現今二百有余戸ニ及ビ之等住民ハ皆均シク本社 ヲ産土神ト崇メ日夜信仰を加エ或ハ拝殿ヲ改築シ玉垣ヲ築キ或ハ石灯籠手洗場石大鳥居等ヲ寄付建立スルモノ実に多 ク現在立派ニ社格をナシ尊敬ヲ保有シ朝夕参拝者ノ絶ユルコトナシ。

明治35年棟札によれば未解読ながら何らかの工事が行われ た。

明治37年(1904年)2月6日~明治38年(1905年)9月5日の間 日露戦争

明治37年(1904年)1月秋葉山常夜燈が奉納された。 「嶋内安全」と刻印されてる。

明治38年(1905年)日露戦争戦勝記念の灯篭が奉納された。 現在は上部はなく、中台と竿だけが残っている。

明治42年棟札によれば未解読ながら何らかの工事が行われ た。

ここが廿軒家島と称されてい た頃、「お まんと(馬駆け)」行事が盛んであった。
「おまんと」とは飾りつけした馬の手綱を持って屈強の若者が白山神社から神 明社へ疾駆してくる行事であったと伝えられている。

ここが廿軒家島と称されてい た頃、「お まんと(馬駆け)」行事が盛んであった。「おまんと」とは飾りつけした馬の手綱を持って屈強の若者が白山神社から神 明社へ疾駆してくる行事であったと伝えられている。

《田中千里さんの想い出話》祭 りの当日はボイルの服(夏の薄手のよそゆき)を着て白山社へ出掛けた。箕浦三郎さんが手綱とっていた。「おまんと」が白山神社の境内を3回廻った後、神明社へ向かって駆けていった。馬の後に従った子供たちは綱を手に取り、馬が速く走りすぎるのを抑えるブレーキの役目を果たしていた。

≪箕浦智代子さんの想い出話≫当時祭礼は神明社ではなく、白山社で他の地区の 氏子と一緒にしていた。 昭和25~30年頃まで白山社には5~6頭の馬がお祭りの時には集まってきていた。

明治43年(1910年)7月15日勅令に」基づき村内各社は皆合祀することになったが、当神社は、当神社の役員の方々の 努力によって、依然として現位置に存続し続けることが認められた。 なお、この勅令によって全国で20万社あった神社の内、7万社が取り壊された。 その中が1つが小幡常燈の神明社であり、廃社となったため、そこに祀られていた神様は、小幡白山社の合祀された。 そしてその後、昭和18年に小幡白山社から分祀され、廿軒家神明社の神様と合霊されました。
 
大正時代
 

大正時代

大正11年(1922年)改造がなされた。

この頃の写真(田中千里提供)

《田中千里さんの想い出話》毎朝父に手をつ ながれて神明社へいった。この頃の神社は東向きであった。当時は向かって右側にお稲荷さんの3つのオシャトもあって、本殿でお参りしたあと、そこでもお祈 りをした。その後では向かって左側の林に入り、きのこや蓑虫をとった。蓑虫は家に持ち帰り、財布を作った。 当時はまだ南の石階段はなかった。南に下り きった今の廿軒家会館や駐在所のある辺りには東から西に向かう川幅2メートル位のチイカワと呼ぶ小川があった。池もあって子供がそこで泳いでいた。これに 対して現在守山川と呼んでいる川は、その当時はオオカワと呼んでいた。オオカワには水車小屋があり、シジミやメダカが住んでいた。上流の瓢箪山から下った 辺りにはため池もあった。矢田川は当時も矢田川と呼んでいた。

 
昭和時代~終戦
 

昭和時代 (~終戦まで)

昭和3年(1928年)11月 御 大典記念(昭和天皇の即位の礼)として現在の社務所に東側にある石鳥居が奉納された。


また、拝殿の手前両側 にある石灯籠1 対も奉納された。
昭和15年(1940年)皇紀2600年記念として百度石が奉納された。

昭和16年(1941年)12月8日太平洋戦争開始・真珠湾攻撃

≪箕浦智代子さんの想い出話≫ 8の付く日は毎日、小学生たちは神明社で掃除をした。

昭和16年12月15日無格社に列なる。

このような低い社格に認定されたのは、明治初期神社台帳判定の当時に当事者が届け出を怠ったためと推定される。
昭和18年(1943年)頃分区により、今まで大字小幡字廿軒家であったのが、大字廿軒家に変わった。即ち、行政区分上、今まで小幡の一部であった廿軒家が小幡から独立した。
昭和18年(1943年)頃、上記の分区をきっかけにして、以前から廿軒家にあった廿軒家神明社は、神社として 白山社から独立することになり、9筆の土地の分譲を受けた。 浅井撰一氏の記録によれば、常燈にあった社が廃止され、白山社に合祀された後、上記土地の分譲を受けて、神明社は常を受け継いだ。(但し、箕浦三郎さんも同行して常灯から直接遷座してきたという上記とは異なる云い伝えも残っている)。なお、小幡の白山神社のホームページには次の記載がある。

『明治43年(1910年)に、東城にあった白山神社、常燈の神明社、北屋敷の諏訪社を、現在の場所にあった愛宕社のところに持ってきて合祀し、名称を白山神社とした。 神社合祀政策の勅令が出たのが明治39年(1906年)のことで、これによって小さな神社は軒並み合祀されて一気に数を激減させることになる。小幡村の神社合祀もそれを受けてのものだったと思われる。』これら文章から総合劇に判断すると、以前から常燈にあった神明社は、明治43年に上記の理由で一旦は白山神社に合祀されたが、昭和18年に上記の別の理由で分祀された直後に、以前がら廿軒家に存在していた廿軒家神明社に合祀されたと推察される。
昭和18年(1943年)7月9日(又は昭和19年5月20日)、登記簿によれば、現在の境内地の殆どの土地(1405番地、2,185m2)が寄付により信徒から神明社に所有権移転された。≪渡邉章孝さんの想い出話≫昔は神社の土地の所有者を氏子の代表者にすることが一般的であったと聞いている。
いつ建てられたか不明であるが、この社務所は戦中に既に存在していた。
昭和和19年(1944年)4月現在の本殿敷地内にある石灯籠1対が奉納された。

渡邉章孝さんの想い出話≫昭和20年5月身内の者が予科練に入隊することになったので、神明社でバンザイをして見送った。その後すぐに沖縄で戦死した。元気者で真っ先に飛び立っていったと後で聞いた。

何時か不明であるが廿軒家神明社の建つ丘状の高まりから鉄斧、鉄鏃、鉄鉾が出土したことがあった。このことからここは古墳ではないかと見られている。

昭和20年(1945年)8月15日玉音放送(ポツダム宣言受諾)

 
昭和時代 戦後
 

昭和時代 (終戦後~)

廿軒家63番地にあった集会場(約5坪)を神明社に移管した。時期は不明。
昭和19年(1944年)7月起工~昭和24年(1949年)10月竣工    本殿 改築、拝殿 改築、石段 新築
昭和20年末、進駐軍の命令で学校にある奉安殿がすべて破壊されることになりましたが、時の青年学校 (現在の守山中学校)の校長黒田毅氏が進駐軍に掛け合 い、 本殿の み原型のままで、神明社へ移築した.。 移築した後は宝庫として利用してきましたが、こちらに記載のように平成18 年2 月18日秋葉神社を境内の 郷倉からこの宝庫へ遷座した。
昭和22年7月26日神社本廰に所属する神明社として登記された。 昭和29年7月7日宗教法人神社本庁に所属する神明社として登記し直された。 登記簿謄本に記載されている目的は下記のとおりである。 「天照皇大神を主神として、奉斉し公衆禮拝の施設を備え神社神道に従って祭祀を行い、祭神の神徳をひろめ、本神社を崇拝する者及び神社神道を信奉する者を教化育成し、社会の福祉に寄與し、その他本神社の目的を達成するための財産管理その他の業務を行う」

昭和23年頃旧社務所前にて

《田中千里さんの想い出話》今の社務所が建 つ以前には、この写真に写っている建物がたっていた。太鼓がおいてあった。そこに住んでおられた方からお供えのお下がりを頂いたこともある。一時期ここが幼稚園であった。 この社務所の南に現存する郷倉は、水道道と瀬戸街道の交差点付近にあったゴングラと呼んでいたものを終戦後移築したものである。 《宇野篤子さんの思い出》禰宜(神主)さんが境内に住んでおられた。祭りの時には社務所に獅子も2つ置つ飾られた。それを小学校上級生がかぶり、下級生の私はその後について町内を回った。 輪くぐりの時にはおでこに赤い○印を付けてもらった。 《渡邉章孝さんの想い出話》当時は祭礼の時には7~8人が笛を吹き、5~6人が太鼓をたたいた。
田中きんろうさんが指揮をとっていた。 ≪箕浦智代子さんの想い出話≫宮司であった伊藤金之助さんが戦後10年ほどここで幼稚園を経営していた。
その後は本居さんがここに住んでいた。
昭和29年(1954年)6月志段味村と守山町が合併して守山市が誕生した。
昭和29年(1954年)7月7日 宗教法人となりました。
昭和29年(1954年)10月本殿新築、こ の時に現在の千代田街道沿いの石鳥居と社標も新築された。

昭和30年(1955年)社務所改築
昭和30年頃、前の神官伊藤金之助が死亡されたので、同氏の建物(建坪36坪)を13万円で譲り受け、社務所として使用し始めた。
昭和30年(1955年)現在社務所が建っている辺りの1406番地と1407番地の土地を永谷・箕浦 両家が寄付し、神明社の境内地に加わった。この記念石柱が拝殿の東側に立てられた。 (この石柱は平成29年(2017年)元旦由緒除幕式を開催するに先立ち、拝殿の西側に移設された)
昭和34年(1959年)9月24日伊勢湾台風来襲
昭和34年(1959年)10月 今の石段の上 の玉垣奉納が奉納され た。昭和37年(1962年)分区 20周年記念として狛犬1対 が奉納された。 昭和37年(1962年)2月15日名古屋市と合併、13番目の区となった。
昭和50年(1975年)1月戦後、戦没者慰霊碑が建てられた。昭和51年(1976年)現在派出所が建っている敷地を愛知県に賃貸開始
昭和53年(1978年)7月15日社務所改築完成
昭和54年(1979年)7月拝殿新築 昭和59年(1984年)現在廿軒家会館が建っている敷地を名古屋市に賃貸開始
昭和63年(1988年)10月本殿、渡殿改築完成《諏訪弘さんの想い出話》昭和62年方賀帳を持って氏子宅を回ったところ、思いもよらないような 志の寄付が集まり、神明社に対する氏子衆の奉神の念の深さに感銘したことが思い出されます。 私事ですが、他の土地から来た者ですが、心底神社への思いが強まったことが、永く神明社への 奉仕ができた基でした。
 
平成年間

平成年間

《諏訪弘さんの想い出話》 平成元年(1989年)頃に私の提案で、氏子総代は祭の時には、皆ハッピを着用するようになりました。 それによって氏子総代の意識も高まりました。
平成5年(1993年)皇太子ご成婚記念とし 今の石段の下 の玉垣が奉納された。

《諏訪弘さんの想い出話》 平成10年(1998年)頃、責任役員であった箕浦鈴夫さんと庄田昭雄さんが尽力し、境内の外に廿軒家神明社 が所有している土地について、借りている方々と明確な契約書を締結し、以降神明社の財政が安定しました。

守山龍神社:平成12年(2000年)7月 16日に、戦国時代の英傑 『豊臣秀吉』に縁が深い清須市の「日吉神社」からお迎えし、遷座しました。
平成15年(2003年)7月 社務所新築
平成18年(2006年)2月18日秋葉神社 を廿軒家神明社の境内に 遷 座 平成19年(2007年)4月1日ホームページを開設
平成19年(2007年)7月スロープ新築・ ろうそく立て奉納 平成22年(2010年)4月1日氏子総代OB制度開始
平成22年(2010年)4月1日朱印帳開始
平成22年(2010年)5月23日拝殿改修完成式典を催しました拝殿耐震改修工事・階段手すり・幟用ポール新設
平成26年(2014年)12月31日津島社を遷座しました。
平成27年(2015年)5月31日鞘堂が完工しました。
平成27年(2015年)10月11日400年祭を斉行しました。平成29年(2017年)元旦由緒除幕式を斉行しました。
平成29年(2017年)から毎年春に桜まつりを恒例行事として開催し始めました。 平成30年(2018年)9月8日参道完成式を催しました。


令和年間

令和年間

令和元年(2019年)10月13日の例大祭の時に、200余本の石玉垣の完成神事と完成祝賀会を開催しました。
今までは、境内北側の道路沿いに古い万代塀が設定されていましが、地震で倒壊する恐れがありましたので、200余名の方々に寄進し頂き、石玉垣に変えました。

2019年5月1日改元 平成→令和
令和元年(2019年)10月22日即位礼正殿の儀
令和元年(2019年)11月10時 午後3時~ 祝賀御列の儀