本ページ、未完成です。
基本方針
令和元年中に、「廿軒家神明社」の由緒(石碑)などに関して、一部の方より、理解し難い個性的な過度な主張・行動が有り、非常に困惑した。
「廿軒家神明社」の由緒(石碑)などは、その主張の極一部で有ります。
本文章を御読みの方も同感の方がおみえかと……、お察し申し上げる。
幼少の頃から神明社で遊んだ当地の住人、先代からの氏子で有り、「廿軒家神明社」に愛着が有るのだろうが、残念なことに その行動は逆効果と思われる。
実際に、私自身は「〇〇年間」と云うような幅を持った考えを主張したいのだが、この方の個性的な過度な主張・行動により、氏子総代会の場とはいえ宮司が、あの状況下で はっきり言われたので、それなりの方向の収束とするしか無くなってしまったのである。
勿論 宮司の言われることが、余りに外れている場合は、訂正を願うこととなりますが、可能性の有る範囲でのことで有れば、許容範囲として新たな信頼性の高い詳細な資料を期待し、収束しておくのが妥当と思います。
神の御世話をする一助の者(氏子総代)として、定かでないことの個性的な過度な主張・行動は、慎むべきことと考えます。
愛着が有るからこそ、色々な資料・資料を集め研究されているとは思うが、適切かつ柔軟な解釈を望む次第で有ります。
次に、歴史などを考える上で承知していて欲しいと思うことを上げました。
1)古文書とは
歴史など考える(史学)上では、今より古い文章なら「古文書」ではありません。
概ね「江戸期(近世)以前の「文書」を「古文書」と使います。
「ふるさと物語 明治17年頃の廿軒家神明社とは?」の項目で記したが、「古文書」と安易に使われる様で、100年も経たない文書にも使われています。確かに「古い文書」を意味するのですが、歴史を語る(史学)上では、概ね「江戸期(近世)以前の「文書」を「古文書」と使います。
何度も「古文書が…」と聞き期待したのですが、残念な話が、溢れてませんした。
歴史を語る上で、基本的なことですから、歴史に馴染みの薄かった方だったのかも知れません。
また、歴史に馴染みの薄い方々に語るには、「箔付け」にはなるかも知れません。
簡単に云って、「父・祖父の書物を「古文書」と云うか?」 「云いません。」で有ります。
2)信頼性・信憑性の有るもの
ケースバイケースと云えば、それまでで有るが、「どんな史料も仮説から始まる」と云っても過言ではない。
長年の研究・多くの史料の累積が、信憑性を高め、ほぼ史実となっていくと云えます。
代をまたぐ研究者も、時には過去の説を見直し、それが繰り返されても、信憑性が高く残る説が、信頼性の高いことであろうと思います。
この辺りのことは、専門の研究者などにより、学ぶ一方であるのが現実です。
(簡略的ではあるが)教科書や、歴史研究家(大学教授…)などの専門書などから学びます、
歴史研究としては、微妙な位置の「郷土史研究家」は、「理論整然とし、裏付け資料も有り、大変貴重な説」も有れば、「理論整然としているような雰囲気を持ち、裏付け資料も有りそうな雰囲気で、よくよく検討すると無理が有ると思う説」も有ります。
少ないですが中には、「直ぐに、論外。」と云うものも有ります。
歴史に接している良心的な方で有れば、「(最初に)仮定して」「可能性が高い。」「妥当である。」「思われる。」などを要所で使われています。
(勿論、元資料の曖昧な口先だけの「可能性が高い。」「妥当である。」は、論外です。)
TVで、歴史を語ってみえる先生方の発言を注視していても、よく使われています。
前おきが、長くなったが、
a)確たる歴史研究家としての専門の教授・先生の書籍からの引用
b)確たる歴史研究団体の解説・説明からの引用 (例えば、徳川黎明会 林政史研究所)
c)確たる出どころの古文書(原本) (色々な面から信憑性の判断が必要)
※ abは、諸説有るかも知れないが、主流の見方を参考としておく。
abに関しても、極力「原本」を見るべきではあるが、切りが無いので、一応先生方を信頼しておくこととする、
上より信憑性が下がるが、
d)諸説・口伝など
諸説や口伝も、比較し相互関係が見えてくると、信憑性が高くなる場合が有ります。
口伝についても同様。
口伝に関しては、そのことに関し「全くメリットの無い時に、話されている口伝」や「先代からの記録に書留められている口伝」などは、最もな「口伝」と考え易いが、「先代からの記録も無く、その口伝により、何らかのメリットがある口伝」は、本当に「口伝」であろうか?
そのように考えても、やむないことで有るが、「口伝」の内には、確かに記録が無いものも有るのが実際である。
諸説や口伝は、信憑性が低いものの、片隅におき出番待ちと記憶しておくものであろう。
※「歴史は変わる」
御存知のように、「鎌倉時代の始まり年」「聖徳太子の呼称」「源頼朝画像」「足利尊氏画像」などが、昔学んだことと変化しています、
「鎌倉時代の始まり年」は、区切りの見方。
「聖徳太子の呼称」は、生存時の呼称。
それに比べ、両画像は衣装などからで、別人の可能性になってしまいました。
この両画像は、長年の云い伝え(口伝)が、採用されていたのでしょうが、疑問の指摘・考察の過程にて変わったのでしょう。
説明しきれませんが、上程度の認識は持って、歴史を垣間見ては…と思います。
廿軒家神明社関連資料 「もりやま」 7号 に上げられた「東春日井群守山町大字小幡字二十軒家神明社調書」の1行目に、「詳カナラザレドモ」と有るのは、どの部分かは明確ではないものの、ある程度の推理が含まれた文章であると考えられます。
後から見る者にとって、どの部分が推理であるか明確にして頂くと有難いが、「詳カナラザレドモ」と加えたところを見ると、この調書の著者の良心であろう。
この調書には、次の疑問が残る。
1)成瀬隼人正は、「犬山城主ナラレルヤ…看守役トシテ組頭外十名の同心…」と有るが、「城主となる以前に、なされた可能性も有るのではないか?」 (「考察」の説明を参照。)
2)「二十軒家…」と称するのが、「元和三年(1617)と嘉永六年(1853)新に同心十名で二十軒」と読めるが、その間239年以上であり、棟札写にある「元禄十六(1703)… …二十軒屋敷」と矛盾する様に思われる。
3)石高・扶持により、必要時それなりの人数を集めないといけないので。「同心一名は、必ずしも一名とはならない。」のではないか? 「二人扶持」とは、「二人分」とも解釈されるのでないか?
など、である。
この調書自体、どなたが調べたものかは不明で、所蔵は成瀬光雄氏(犬山市)となっている。
成瀬光雄氏が調べたものかも知れない。
犬山の成瀬氏と聞くと、犬山城主の身内だろうか…とも思えるが、たまたま犬山市在住の苗字が、たまたま「成瀬」なのかも知れない。
一概に云えないものの、そのまま写したであろう「棟札写」の方が、詳カナラザレドモ…と断りを入れ推理が含まれているであろう「…調書」より、信憑性が高いであろうよ考えます。
作成年代も、棟札写の欄に、大正十一年が出てくることより、古くても昭和の初め頃、この様な調べものができる余裕ができる頃と思えば、昭和30年代以降ではないか…とも考えられなす。
「信頼度がかなり高い古文書」と表現されたりする箇所が有りますが、「古文書」とは言えませんし、その文章には、「詳カラザレドモ」(詳しくないけれど)と不安定要素が有ることが書かれています。
また、色々と考慮しますと「信頼度がかなり高い」とは、全く言えません。
貴重な資料とは見ますが、返って「信頼度のの低い部分がある。」と云うところでしょう。
確たる信頼できる史料以外は、他の裏付けをとるまでは、言い切れるものでは有りません。
確たるところの史料でも、その立場での過飾が有る可能性は、否定できません。
令和二年1月15日記
本項目も、未完成です。
考 察
廿軒家神明社の創建頃の関連するであろう出来事を示し考察してみる。
1596≀ 1600 関ヶ原の戦い(慶長5)
≀ . 戦の後、4男 松平忠吉を尾張へ
≀ 徳川義直 1601生
≀ 平岩親吉 1542~1611 義直守役・甲斐代理統治 → 尾張附家老
≀ 成瀬正成 1567~1625 隼人正 初代犬山藩主
≀ 尾張藩の附家老として死去した平岩親吉.の軍勢を指揮
≀ 1603初代 家康
≀ 1605 2代 秀忠
≀ 1607 忠吉没 28 (慶長12)
≀ 1607 9男 義直(6) 甲斐→尾張藩主(清州)
≀ ※義直が清州から移って、尾張藩が成立。
≀ 家康命 義直付属重臣 成瀬 (竹腰・石河・志水・渡辺) 氏 尾張へ
≀ 1608 幕府伊奈備前により尾張検地
慶 長 1610 成瀬隼人、義直補佐役
≀
≀ 1611 ~平岩親吉 犬山城主 平岩親吉家 断絶
≀ 1611 後水尾天皇 1611 ~ ( 甥 平岩吉範 犬山城主 ) ~ 1617(元和3) ~ 成瀬
≀ 1612 尾張所領加増 (鵜沼・木曽川流域)
≀ 1610 ~ 1612 名古屋城築城 (天守完成) 1614 竣工
≀ 1613 ~ ~ ~ ~ ~ 1616 清州越し
1614 1614冬の陣
1615 1615 大坂夏の陣
≀ 1616家康没
≀ 617(元和3) ~ 成瀬
≀
≀
元 和
≀
≀
1623 1623 3代 家光
1624
≀
≀
≀
寛 永
≀
≀
1645
尾張は、大坂城中心の豊臣勢力への、
監視・牽制・防御の戦略的重要拠点。
1607以降の早急 在所とした。
成瀬氏 犬山 (領国北方)
竹腰氏 美濃安八郡今尾
石河氏 美濃中島郡
志水氏 名古屋城南部・知多郡大高
渡辺氏 三河加茂郡寺部