廿軒家神明社のホームーページ

下表に記載の文字をクリックすれば、色々な写真や絵をみることができます。 

衛星写真 2007年
航空写真
1964年頃
航空写真
年代未調査
航空写真
年代未調査
郷土地図
1841年
村絵図
全体
神明社付近
廿軒家小学校付近
全体(低画素数)
全体(高画素数)
神明社付近
廿軒家小学校付近
全体(低画素数)
全体(高画素数)
神明社付近
廿軒家小学校付近
全体 全体 全体

以下の写真は小川萬蔵さんから提供いただいたものであり、廿軒家小学校のプールが竣工した
昭和39年(1964年)ごろに撮影されたものと推定されます。


以下に、この写真に関連付けて、皆様から既にお聞かせ頂きました想い出話を掲載します。
今後このコーナーを充実させたいと思いますので、これからも想い出をお聞かせねがいます。
   想い出話を神明社へメー ルで知らせる
メールには詳しい内容を記載頂かなくても結構です。口頭でお伺いし、それをこちらで文章化して
このページに載せることも致しますので、"想い出あり"とご一報くださるだけでも結構です。
手っ取り早いですので、私(長尾)の想い出を以下に多く記載しましたが、これから皆様の想い出
を沢山追加してゆきたいと考えておりますので、何卒ご理解願います。m(_ _)m


《田中千里さんの想い出》
■幼い頃は毎朝父に手をつながれてG神明社へいった。この頃の神社は東向きであった。
■当時右側にお稲荷さんの3つのオシャトもあって、本殿でお参りしたあと、そこでもお祈りを  
  した。その後では向かって左側の林に入り、きのこや蓑虫をとった。蓑虫は家に持ち帰り、
  財布を作った。
■当時はまだ南の石階段はなかった。南に下りきった今の廿軒家会館や駐在所のある辺りには
  東から西に向かう川幅2メートル位のFちい川と呼ぶ小川があった。池もあって子供がそこ で
  泳いでいた。これに対して現在守山川と呼んでいる川は、その当時はEおお川と呼んでい た。
  おお川には水車小屋があり、シジミやメダカが住んでいた。上流の瓢箪山から下った辺りには
  ため池もあった。
  ※守山市史には下記の記述があります。
    「もともとこの辺りには通称大川と呼ぶ清流があったが、耕地整理で埋め立てられた。
     これに代わったのが守山川である。守山川は小幡及び廿軒家の水田の用排水水路で、
     耕地整理組合によってつくられ、・・・」
    

Iにある自宅のすぐ南に戦争中爆弾が落ちた。そのため自宅が崩壊し下敷きになりかけたが
  落ちてきた棟木の中央湾曲部にできた空間に閉じ込められただけで済み、助かった。

《川本文彦さんの想い出》
川本さんがお書きになった41章からなる「ふるさと守山物語」は、全頁スキャナーでとって本ホー
ムページでご覧いただけるようになっていますが、私(長尾)は、その内、特に下記の2章に興味を
持ちました。
 ■12.ふるさとの 川
  矢田川でのシラハエ・アカモツなどを四つ手網で取った体験が生き生きと描かれています。
 ■32.空襲の惨状
  川向こうの三菱重工名古屋発動機製作所や守山での凄惨な空襲の状況が書かれています。

《小川萬蔵さんの想い出》
Aの自宅を建てたころは、東はこの写真の通り殆ど田んぼで、見通しがよかった。
■最近Fの辺りの自宅も建替えたが、砂地で基礎工事が大変であたった。この辺りに川が流れ
  ていたというのは頷ける。
Gの辺りに終戦間じかにシートが掛けられていた遺体があった。
  ※私(長尾)もその記憶があり、近づくのが怖い思いをした。

《私(長尾 治)の想い出》
■宮前橋は以前はDの位置に架かっていた。
  また、橋の下流20mぐらいのところに砂採取のトロッコ橋も架かっていた。
  無断でトロッコ遊びもした。
  ※守山市史には宮前橋について下記の記述があります。
   「昭和12年にはじめて耕地整理組合によって松川橋修理の廃材をもって架橋した。
    それも川原の中の流れだけにかけたものであったが、空襲で破壊された。
    その後、昭和22年に木橋の本橋が架けられたが、昭和32年8月の豪雨で流失したので
    、昭和33年10月、長さ188メートル・幅9.5メートルプレストレスコンクリートの近代的は姿
    で完成した。」





現在の宮前橋

■終戦間近の頃、空襲で片手を失った男性が、付き添われながら、対岸の三菱発動機の方から
  宮前橋を渡ってこちらへ逃れてきた。当時私は4才ぐらい。なぜかこのことを今でも時々思い
  出す。現実であったのか夢であったのか確かでない。
  これに対して私より6歳上の上記の川本文彦さんの記憶は32.空襲の惨状に 書かれているよう
  鮮烈。この年代の方々の心に残ったストレスは測り知れない。
Hで生まれ育った私の家は近所付き合いが悪かったが、近所のイサムチャン・ヤスチャンたち
  とはよくリヤカー遊びをした。ある時、皆を乗せてリヤカーを牽っぱって行ったら、勢いあまって
  近所の塀にぶつかり壊してしまった。どう謝ったのか記憶にないのが恥ずかしい。
  最近、愛昇殿でイサムチャンに55年振りぐらいに再会し、場違いながら握手を交わした。
■自転車に乗れるようになった頃は嬉しくてたまらず、Hの坂の上からノーブレーキで走り下だ り、
  千代田街道を横切って矢田川堤防へと向かっていっては戻ってくることを何回も繰り返した。
  そんなことがあまり無茶でも何でもない、静かでのんびりとした時代であった。  
Gの神明 社については、近所に住みながら、大木の松が一杯あったこと以外、あまり印象に
  残っていることがない。年越しでもお参りにいったことはない。当時は殆ど行事が無かったの
  では
ないかと思う。今では四季折々の行事に沢山の方が参拝しておられ るが、ここにまで
  もってきた諸先輩の方々のご努力に感謝したい。

■田中千里さんのいうFちい川はもう消失していたが、まだ泉だけはその辺りに一箇所残ってい
  た。勿論その泉も今はない。
■戦後、@の辺りにイナゴ取りによく出掛けた。袋に入れたまま一晩おき、糞を出させたあと、
  炒って食べた。口の中でシャゴシャゴしたがおいしかった。
  蜂の子も生きたのをよく食べた。最近蚕を乾燥させたのをパス旅行に行った時に見かけて
  買ったが、こちらの方は、家に持ち帰り、いざ食べようとした時に気持ち悪くなり、全部捨てた。
■三菱発動機の跡地の爆弾池にはエビガニやドジョウを捕りに出掛けた。
Cの位置に、この写真に写っているように落差1mほどの砂防堰堤があった。
  
■小学校低学年の時の最も楽しい思い出は、D旧宮前橋からC堰堤の間で、ヨツデで魚捕り
  をしたことである。夏休みには毎日のように出かけた。ヨツデの上流をバシッと棒で叩き、魚を
  網に追い込む。線がサットと走ったらすぐ上げる。 ヨツデの中で腹が虹色のアカモツが飛び
  跳ねているのを確認したときの喜びは大変なものであった。
   
 また、大雨で増水の翌日は、C堰堤の水叩き部で鯰・フナ・雷魚などの大物が捕れた。
 もっとも大きかったは鯰で、獲物入れに入りきらないので、長靴を片方脱いで、それに入れた。
 3分の1ほど尾っぽの方が長靴からはみ出しでいたが、何とか家の池まで持ち帰ることができた。
 今の子供たちはこのような体験はできない。