明治17年(1884年)頃の廿軒家神明社 
     (天保12年(1831年)頃の廿軒家神明社についても追記
最近(2019年9月)愛知県公文書館で明治17年に作成された地籍図を閲覧してきました。
閲覧して始めは廿軒家神明社がこの地籍図に載っていないのに驚きました。
そこで更に調べた結果、”当時も廿軒家神明社は実在していたであろう”と結論付けました。
その理由を以下に記載します。
<理由1>
廿軒家神明社が存在していた辺りのこの地籍図の抜粋を、大正末期に作成された小幡郷図と
対比する形で以下に示します。
地籍図の方については、 廿軒家神明社が存在して辺りの拡大図も以下に示します。
この拡大図には、赤線で囲った"千八百十・・柴生 "と記載されている土地があります。
この土地は、大正末期に作成された小幡郷図と比較すると、廿軒家神明社が存在していたであ
ろう土地に当たります。
今と同じ位置にL字型の参道も表示されています。

<理由2>
この土地の地目は柴生です。柴生とは柴のように低い雑木が生えている土地という意味です。
近隣の土地は皆地目が畑であるのに対して、ここだけが柴生となっており、一般的は私有地
ではありません。
(但し昭和中期まで神明社の境内の傾斜地は松林でした。平坦地は今も高木が茂っています
 当時以降にこれの樹木が植えられたのでしょうか?)

<理由3>
廿軒家神明社の由緒について信頼度がかなり高い古文書が存在します。
それらの古文書には、創建は元和3年以降の元和年間(1617年~1624年)と記載されてい
ます。
また、”明治8年本社境内土地ハ二十軒家島信徒ニ払イ下ゲ受ケタ。”とも記載されています。

但し、この土地の地目は柴生と記載されているのですから、当時は廿軒家神明社の社殿は、
極めて小さなものであったと推察されます。

 
 
 
 《追記》
守山郷土史研究会発行の「もりやま」第4号 P66に天保12年(1842年)に作成された以下に示す
小幡村村絵図が載っています。
この絵図にも以下に注記したように、常燈神明社は記載されていますが、廿軒家神明社は記載
されてていません。 
従って、上記理由で廿軒家神明社は天保12年(1842年)頃も既に存在していたと推定されますが、
神社とは言えないほど、小さなものであったと思われます。

 上記村江図の原本を以下に示します。
 これは徳川林政史研究所所蔵絵図目録1のP42にリストアップされている絵図です。
鶴舞図書館からこの絵図を入手しました。       この地図の全体拡大表示はこちら
 
上記小幡村絵図について解説した文章が、「矢田川」のP132~P136に掲載されていますので、それを
以下に示します。